作者の意図を行間から読み取る方法について国語の授業で教わった覚えはあるけれども、さて物語を作り出す方法についてはというとはて、教わったという覚えがないようだ。
改めて、二次創作或いは創作というものを行う前に考えてみる。
どのようにして物語を作るのか。
他人に文章を見せて、私はよく「読み辛い」「意味が分からない」「面白くない」と言われてしまうのだが、おそらく再構築がうまくいっていないせいではないかと思う。
二次創作について。
二次創作というのは、一次創作物・・・すなわち原作を下敷きにした創作のことをいう。
作者の意図を行間から読み取るだけではなく、そこから勝手に妄想を膨らませて、いくつかの筋書きを、解答を得る。
ここで得た解をそのまま説く、それは解説というものであり、創作のうちプリミティブな部類だ。
解をもとに、その解を導き出すような問題を作成するというのが物語を作るということだ。
うまい物語というのは、読み手側にそうと悟られず解説を織り込み、読み終える頃には明確な解答を確信できて尚、更に別の解答を含んでいるものだ。
読ませる工夫、それこそが私に欠けている最たるものなのだろう。
二次創作物が一次創作物になるためには、その前提条件である原作という下敷きを無くしても成立するかどうかというハードルを乗り越えなくてはならず、その下駄を取り除いても崩れないか検討する必要があるだろう。
綿密に構築された物語においては、読者ごとに持っている前提条件の差というものは柔軟に受け止めてくれるし、何か少し欠けていたからといって容易く崩れはしないものだ。
例えばラノベやミステリのようなものが読み易いというのは、明確な解答が示され、誰もが同じようにその解答を自分でみつけることができるからだろう。
そういった小説をもう一度分解し、物語を事象へと再構築したものが文学などと呼ばれる類の、国語の問題分などに採用されるような、表面上難解につくられた、読者に優しくない文のことだと思う。
ミステリは、解答編がなければ文学の一種なのだろう。
いくつかのミステリ(謎説き小説)においては、解答が得られない(あるいは無限に存在する)問題になっていたり、解答編をわざと残さなかったりと意地悪なものもある。過去、様々なミステリを読んだ私は、ミステリというものの持つ構造がどれだけシンプルか、反文学であるかということが端々に主張されてきたか思い出すことができる。
だが、シンプルであれば面白いという訳ではない。物語でなければ、ミステリはただのパズルであり、クイズでしかない。今の小説は、文学というよりもミステリに近い。明確に謎と解答が用意されている。わかりやすいというのはつまりそういうことだ。
今まで私がやってきた二次創作というものは、分解し再構築したものの、解答部分だけを記したものに過ぎない。それまで二次創作の、同人界隈で発表されてきた解答の、別解を単純に記しただけのものだ。
同人誌を読む。
ほとんどが取るに足りない、物語未満の、こじつけすぎた誤答ばかりだと思う。
けれどもその中に、文学がある。小説がある。ミステリがある。うまい、読ませる、そうかもしれないと思わせてくれる。興奮する。血がたぎる。私もこんなふうに、かきたい。そう思う。
アマチュアとプロの境が曖昧な昨今、価値を測る物差しにすらならないその区別はもう忘れてしまった方がいいだろう。勿論それは、読む側、受け取る側としての心構えだ。けれども、二次創作か一次創作かというのは読み終えた後十分に検討する必要がある。優れた二次創作についてのみ、二度、三度繰り返して読み検討し、それに対する自分自身の解答を持たねばならないと思う。
私は絵を描くことが好きだ。文章を書けるコンディションの時は、ずっと書いていたいと思う。考えることができるなら、謎を反芻し、解き明かしていきたい。いつでも。
解答を読者に投げかけて終わる・・・そう評されていた、某ミステリ作家の「小説」を読み終えたとき、作者は解答を用意していないのではなく、犯人かもしれない少年の父親である主人公のように、解答を見つけたくなかったのではないかと想像した。
解き明かしたくない謎、ミステリではよくあるテーマともいえる。
分かって欲しくない心の内を、膨大な文字数によって殆ど覆いつくしてしまっても、作者というものは理解されたがっているのだ、どこかで。なんてめんどくさいんだろう。
私は絵がへたくそだ。文章など、自己満足以上のものになった試しがない。
それ以上に、自分自身の脳みそや肉体がダメダメだから、絵を描き、文章を綴り、漫画をかこうとするのだ。
物語の解答は作った。筋書きも。あとはいかにしてそれを、物語という形に作り替えるか。
ひとつの物語をつくるということについて、それが分からなくて困っている。
空腹になる肉体がある。何もしないでも、何かしていたら余計に腹が減る。
お金が無い。お金が無いと美味しいものが食べられない。
働かない人間は生きる資格が無いと言い、自分のような人間未満の生き物に死んでしまえと言っているようで嫌になる。
震災があった。最近のも、ずっと昔のも、更にもっと遠くの国であったことも、報道を通したり余波を身に受けたりしたことで思うのは、死にたくないと思う単純な本能めいた叫びだ。
一時期、石川さんの「僕たちはまだ何も知らない」というアルバムばかりカーステで掛けていたことを思い出す。似たような歌詞があった。何度も何度も反芻し、大声で歌っていた。
幼い頃、短冊に書いたことはずっと同じだった。ことばは違っても、意味は同じだ。
死にたくない。
不治の病に罹った親戚のおばさんが私のことを大好きだから、また会いに来てねとその息子が別れ際に言った。
そのおばさんは、会っても話しても心配させるだけだから自分からは何もしたくはないのだと笑って言っていた。
私はずっと子供のような気持ちでいるし、中学時代の失恋からこっちまるで成長していない自分自身を知っているが、それでも肉体ばかりが年を取ることを止められない。
こんな子供のような30才が働けるような場所なんて、そう多くはないだろう。
引っ越そうと思う。その準備をしている。仕事を辞めた。さしあたっての貯蓄は一応ある。
妹から電話があった。母親から代わって、帰ってこいと言った。帰る場所なんてどこにもないが、私は私の居場所が欲しいと思っている。かつて家族だったあの家に行って、きっとすぐに私は寂しくなるし、帰りたいと思うだろう。
私の中身はからっぽで、本当に何もないから呆れられることもしばしばだ。人間としての深みが全くないのだと、かつて友人からしみじみ言われたこともある。
一人の友達が年賀状をくれた。まだ読んでいないけれど、私も年賀状を描いた。しかも二種類だ。旅先から戻ってしばらく経っているから、もう年賀状なんていらないかもしれないのに。
私は死ぬ。
おそらくは、あと100年以内のいつか。
自分で決めることもできるし、誰かに決められることも、一人かもしれないし、沢山の人と一緒かもしれない。それはまだわからない。
それでも死にたくないと思う。まだ、今は死にたくない。
きっと皆似たようなものだと思う。少なくとも、物語を書こうなんていう彼ら彼女らはきっと同類なのだ。
結論は決まっている。けれど、その結論から過程を導き出すことはできない。
私は覚えている。きらきらとした、何の裏もない憧れの眼差しを、一点の曇りもない称賛を、それを受け止めたときの気恥かしさや幸福感をひとつひとつ思い出すことができる。糧というやつだ。
チャイムが鳴った。開けてみると、西濃のお兄ちゃんが立っていた。ペーパーカッターだ。
私はそれを使って同人誌や漫画や小説を切り刻み、電子化するつもりでいる。携帯用と、引っ越しの為に。
持ってみると、想像していたよりも重くない。18kgもないような気がする。
頼んでいた同人誌はまだ届かない。
部屋はちらかっている。まだ頼んでから1日しか経っていないはずなのに、はやすぎる。
私が頼まれている同人誌の発送は、宛名を書いて印刷するだけ。年賀状もそうだ。
まずは頼まれごとを、そして次は年賀状を、それから蛍光灯を外して代わりを買ってこなければ。
そうしなければ作業ができないし、それにお腹が空いたのだ。
- 2012/01/11(水) 14:11:16|
- 雑記
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コミケ会場でとても強く感じることですが、彼ら彼女らは老いも若いもひっくるめて皆同じように情熱に突き動かされて本を作っているのだと思うのです。
色々な土台の上で創作し、それも横のつながりというのがあって、それこそが「同人」活動ではないかと思うのです。
今まで我々がModを作って、お互い交流を持ってきたのと同じように。
ただ、違うのは彼らが「物語を作る」人々だということです。
MIC-Bさんは詩的に「固体であり液体である」と仰りましたが、たしかに土台として利用するのではなく、再撹拌したり(リミックス)、色々なものを混ぜたり(Wパロティ)、原作というものの捉え方も皆それぞれ違っていて、二次創作というものがもつ奥行きは一次創作とは違う次元だと思います。
生かさず殺さず、原作があってこその二次創作ならではの悩み苦しみというものもあるのでしょう。
今まであまり考えてこなかったことですが、たしかに、入りやすいかもしれない同人活動も、極めようとすると一次創作よりも困難な道のりになるのかもしれませんね。
同人作家の端くれとして、今年の夏もあの場所に立っていたいなとそう願っています。今度こそ新しい物語を持って。
- 2012/01/13(金) 13:53:46 |
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- 某・ガノ・人 #PV.pG2XY
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