漫画の表現については元アニメーターならではの差異が散見されるけれども、躍動感よりも静止画としての美しさを要求される昨今の流行を鑑みれば氏の描写はそれで正しいのだろう。
さて、まだまだ2巻までしか出ていないものの序盤に張り巡らされた膨大なバックグラウンドをすべてそのまま描写するにはコミックという媒体では厳しいので、物語そのものを圧縮するのは至極当然ともいえる。
出来事や人物描写は省略し、政治的背景や作戦内容そのもの、組織内部での軋轢や結束をより細かく描く手法はことゼータという物語に於いては上手い切り口に見える。
もっとも目立つ差異は巻末インタビューで語られているように、細部に於いてのキャラクターは原作に比べてより良く、或いはより愚かしく描かれていることだ。
例えば、前作のガンダムから引き続き登場するブライトやクワトロ(シャア)は顕著に、本当は理想が高く賢い大人であるように理想化されている。
これは原作で、すべてのキャラクターに欠点と美点を与えていたのとは全く逆方向の造形であり、表面的な“富野節”ではない部分の魅力は失われているものの、当時の視聴者であった若者が思い描いているであろう理想像をそのまま形にしたように、客層を意識したつくりということもできる。
富野氏が当時ゼータの客商売的なやりかたを嫌っていたための刺々しい“敵愾心”“反抗期”めいた作り方があの陰鬱で混乱しきった世界観の背景であったことを思い出すと、ごく最近からのゼータファンとしては違和感を覚える。
この違和感について簡単に表現するとすれば、若さが足りないのである。
北爪氏の前作C・D・Aに於いては、未だかつて創造されてこなかった隙間の時代を描くことでの冒険であり、ネオ・ジオン指導者ハマーンの幼少期をより普通の少女らしく描くなど、二次創作といえども若々しい作品であったことが思い出される。
ガンダムU・Cやジ・オリジンの反響の大きさ、ガンダムという長寿シリーズ作品を延命させる手段として、新規顧客の開拓ではなく既存顧客の人気取りを目指して商売をするのは一見よいことのように思える。
けれども、そのやり方は延命であって蘇生ではないのである。
若さが足りないのはガンダムに限った話ではない。
アニメーション業界のバブル以降、激しい競争の末に辿りついた今の制作体制は安定志向でありリスクの無いものづくりを行っている。
伝統のある業界ならばそれでもいいだろう。しかし、アニメーションとはかつて若者向けに若者が創造する、夢の提供ではなかったか。
地上波民放による制作の周落を見れば先細りは火を見るより明らかであり、(今更になって)政府の宣伝するようなソフト・パワーを今の作品からは感じられないのである。
若者が夢を持てない時代であると老人は言う。けれども老人は若者に夢を与えているだろうか。そして老人は夢を描いているだろうか。
想像とは夢を見ることであり、創造とは夢を形作ることである。
商業主義の終焉は目前に迫っている。実際に屋台骨が傾き、斜陽を自覚するまでなにもしなければ、座して死を待つより他はないのである。
とまあマジメっぽく、今のアニメが気に入らない理由をツラツラ書いたりしてみたのだけれども、搾取する側とされる側がくっきりと目に見えて断絶していくのが分かるから、下層にいる側としてこそ滾るものがあったりするのだけれどもね。あちら側には金や安定はあっても一欠けらも夢なんてないのですよ。
小さな世界でいえば、芸術家が成功者になった途端に創造力を失うなんてことはごく当たり前のことなのですし。
だからこそラノベ業界が食い荒らされることに憤りを感じるし、使い捨てにする側が使い捨てにされることへの先見性が全くないという愚かさに呆れもする。
そういう不満はとりあえず置いといて、Defineでのカミーユやファたち若者がどう描かれているかにも触れておこう。
富野氏はファを活発な少女として、カミーユを女性的な少年として設定したのはガンダムの少女漫画的な側面であり、中性的な精神のあらわれである。(ZZやCCAには無いが、F91やターンAにはある)
こっち側の富野節はDefineに受け継がれていない。
カミーユは両親に反発する少年であり、精神的に不安定なのは“そういう御年頃だから”で済まされている。
またファについてもか弱い少女として描かれており(ホットパンツではなくフレアスカート!)、ティターンズに捕まった折りに裸になって検査され、それは単純に“酷い目に遭わされた”ということで済まされている。
時代背景ということもあるが、ゼータという物語においては男女の問題は比重が大きく(前時代的に捉えられかねないが)、エマやレコア(セイラやミライ)は女性の社会進出による諸問題としてのアプローチがあった。
レコアのサラやファに対する接し方は、男性社会において己がどのように傷つけられてきたかをふと零す瞬間であり、ティターンズに寝返った彼女の中の脆い部分を見るようで切ない。
Defineではレコアは有能でときに冷酷な女戦士であり、少年少女を思いやる優しいお姉さんであり、またクワトロに想いを寄せる少女めいた部分も兼ね備る魅力的な女性として描写されている。
彼女の甘さを利用するクワトロは“非情なる戦士”であり“悪い男”であり“ずるい大人”ではない、というのがDefineである。
敵方について述べるなら、ジェリドが最も目立って(悪い意味で)変化しているキャラクターだろう。
映画版では大幅に省略され、割りを食ったように、本作では若きエリートとして単純化され、若さは物知らずな愚かさであり、無鉄砲な突進は諌められ、大人の言うことをきく可愛いボウヤとして描かれている。
特に最初のカミーユとの喧嘩において本作の原作ゼータとの違いがよく表れている。
傲慢ではあれ、あまり悪気はなかった悲劇の熱血漢である“好青年”のジェリド、カミーユからの思わぬ反撃を食らって道を外れていくゼータ原作の彼は、愚かしい中にも素直な人間らしさがあり、屈折したカミーユとは対照的な人間として描かれていた。
「カミーユ?女の名前なのに・・・なんだ、男か。」
「カミーユが男の名前で何が悪いんだ!俺は男だよ!!」
当時の男らしさを体現したかのようなジェリドに対する嫉妬心がカミーユの中に在った。
男らしくないことにコンプレックスを抱くカミーユは、ファの静止を振り切り、目の前に在るゲート(障害物)を軽々と飛び越え、(おそらく今まで彼をからかった同級生や上級生にしたのと同じように)衝動のままにジェリドを殴った。
富野版カミーユは、すぐキレる理解し難い少年であり、背伸びしたがる年頃ではあるけれども、弱者に対して彼の心は優しかった。
放映当初ほとんどの視聴者に受け入れられなかったというカミーユの造形は、新約ゼータや北爪版においてはごく普通の少年として描かれている。対するジェリドは功名心に逸る“鼻もちならないエリート”であり、ティターンズの威光を着た口先だけの小物である。
主役はクワトロ(シャア)である為に、カミーユはひとつの“駒”でしかないというDefineのアプローチは好きだ。
私もまた、カミーユの人間らしい“良心”を大人の都合で利用し、それが結果としてニュータイプの理想を破壊したという皮肉な結末を迎えた愚かなクワトロ(シャア)のストーリーを心から愛している一人である。
今後“駒”たる彼ら若者が戦場という世界でどのように変化していくか、Defineの行く末とともに静かに見守ろうと思う。
ま、私は私だけのカミーユたんをちゅっちゅハァハァしとくんで、それはそれで!
- 2012/06/10(日) 14:17:14|
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