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ぷりみてぃぶろぐ

3Dイリュ毛の改造記事と、個人的な記録。

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妹と飛行機とお仕事

母親の実家は大分で、妹が暮らしている家は伊賀だからとっても遠い訳だ。
長い間植物状態に近かった祖母が亡くなって、真夜中の電話を受けたのは去年の話だ。
母は泣いていて、おばあちゃんはがんばったんだよと繰り返し言っていた。
次の日は会社に行って、通夜の日取りなど連絡をして、私は昼から車で伊賀へと帰省した。
夜に着けばいいということで、妹と父と一緒に電車で向かうことにして、近鉄急行で鶴橋へ、そしてJRで新大阪まで行ってそこから先は新幹線だった。
あまり胃腸の具合がよろしくなかったが、駅弁などを買って、互いに交換して食べたりして、小倉までは半分寝ていた。
小倉からは乗り換えまで時間があったので駅前の屋台で色々と買い食いをした。食べてばかりだった。
もう夜だった。12月の夜は、九州でも寒く、温かい飲み物で手を温めて、ヘンな名前の特急で大分まで行った。
なんだっけ、ソニック?
そんなこんなで大分駅に車で迎えに来てもらって、通夜の会場はといえば祖父のときと同じで、わさだタウンの近くにある小さな会館だった。
もうだいぶいろんな人が帰ってしまっていたけれど、それでも小さな部屋に大人数が集まったもので、祖母から勘定するとひ孫にあたるようなちびっこたちがうろちょろうろちょろとしていて、さっぱり名前が覚えられないくらいにぎゅうぎゅうだった。
久しぶりに会った親戚は、あまり変わっていないような変わっているような、ぐるぐる顔を確かめてはへえと感心するばかりだった。
ほとんどの高齢者や私たち遠方の者は葬儀場に泊るということで、すし詰め状態の部屋はといえば、いびきの大コーラスで、全く眠れやしない私はこっそり抜け出して一升瓶を片手に茶碗でちびりちびりとやりながら大分合同新聞なんてローカルなものを見たり携帯をいじったりしていた。
そこへ、同じく眠れなかったメンバーがひとりふたりと集まり出し、みんなでしみじみと酒やおつまみをいただいた。
酒が入ったということで、さっさと寝てしまった皆を見送って、私はぶらりと式場の中や外を散歩しに行った。
星の綺麗な夜だった。いや、ド田舎で寒くて天気が良かったからかもしれないけれど、本当に空一面に星がきらきらと瞬いていた。
そこに、私のいないことを見咎めた親戚がやってきて心配をしてくれたんだけど、ただ酒が入ると眠れなくなるんだと言ったら笑っていた。
盛大な、というか会場にぎっしりと人が詰まっていたのでびっくりした葬式だった。祖父の時よりもだいぶ多い。
私は祖母のことをあまり知らなかったので、特に感慨なくそれを見ていたのだけれど、周りの人間が皆泣いていたので釣られて涙が出たのを勘違いしてくれるのはありがたかった。
母は何度も伊賀から大分に見舞いに行っていて、ちょうど見舞いの当番だったらしいあの夜、祖母の死に立ち会ったということだった。
母は憔悴していて、それでも気丈に振る舞っていた。
母の妹や姉たちがきびきび動くのと比べると、やはり母は数テンポ遅く、私はやはり母似なのだなあとしみじみ思いながらの葬儀だった。
トンボ帰りになるけれど、私と妹と父は仕事もあるので火葬の途中だけれど飛行機で帰ることにした。
交通の便が悪く、高速道路でそこまで行くか、また大分駅に戻ってそこからバスを使うかしか道は無い。
母がそこまで送るというので、電話で飛行機の予約を取って、それじゃあ行こうと葬儀場からの坂を下ったところでだ。
母が泣きだした。
お骨を拾えないと泣いた。あわてて父がハンドルを切って、葬儀場へと戻った。
普通に考えればそういうことになると分かるのだが、ただ目の前のこと1つしか考えられなくなっていたのだろう。
何でそれを言わなかったのかと皆を責め、泣いていた。戻ってもだ。
さてどうしようと考えたが、母の様子が尋常ではなかった為に、父は残ることにして、私が運転をして飛行場まで行って父が帰りを運転することにした。
こういう時にいつも妹は他人に運転を任せるところがあって、人使いがうまいものだと感心する。
まったく、一体いつまで走らされるのかとうんざりするほど山の中の一本道を延々走ったものだ。
風景も変化が無いので、目的地に近付いている実感も湧かなかったし、もう通り過ぎてしまったのではないかと何度思ったことだろう。
イライラしてかっ飛ばした結果というわけでもないが、飛行機の受付までは一時間以上も暇が出来てしまったので妹と構内をぶらぶら探索したのだけれど、地方の飛行場なんて土産屋とかお食事とかそういう至極どうでもいい店しかなくて、すぐに退屈してしまった私たちはベンチに寄り掛かって寝ていた。
妹がもたれかかってくる重さを感じて、ああ、こいつは生きているんだなとなんだかしみじみ感じてしまった。
実は、飛行機に乗るのが全く初体験(物心ついてからは)という私にとって、例え国内便のローカル線で小さくても飛行機そのものに興奮していた。
手荷物チェックや金属探知、ゲートを通って、タラップを渡り、シートベルトの装着や安全具の説明など、搭乗員がくれたオレンジジュースにまで興奮をしていた。
離陸する時の興奮が最高潮で、ものすごい加速を体に感じて、窓の外の景色がびゅんびゅん飛んでいくのがとても愉快だったし、きゃあきゃあ声をあげてなんともアトラクション的な楽しみ方をしていた。
もう夜だったので、大分の景色というのはほとんど見えなかったけれど、大阪上空はすごかった。
光の筋が縦横無尽に巡らされていて、田舎の方や都会の方の明るさがどれだけ違うか比較したり、今どの辺りを飛んでいるのかと淀川辺りから見当をつけてみたり、窓の外を飽きずに眺めていた。
せっかく大阪に着いたのだけれど、またここからバスに乗らなければ町に辿りつけないし帰りの電車にも乗れないのだけれど、さっそくバス乗り場で迷子になって、あっちこっちとぐるぐる回ったので大変疲れてしまった。
バスの中で妹が妙な事を言い出した。家のカギを持ってないと。
なるほど、ドタバタして出てきたし、父が帰らないことになったから鍵の引き渡しをしていなかったらしい。
不用心なことに、結局は物置につりさげられている常備の勝手口鍵を使うことで決着したのだけれど、もしもなかったら私の家に泊ればいいんじゃないかと言って、ずっと不安そうにしている妹を励ましていたことをよく覚えている。
難波で、閉店間際の店に駆け込んでオムライスを食べた。
妹は金が無いとか何とか言って、私に払わせていた。そういえば飛行機代も私がカードで支払ったのだった。
まあまあの食事を終えて、難波~上本町~近鉄急行でまた戻った訳だ。
聞けば、妹がどうしても帰りたいと言った理由は男とクリスマスデートをする為だったらしい。
多分、それを最初に知っていたら食事を奢るなんて・・・いや、絶対そんなことはせずそのまま帰ったに違いない。
私の方の理由は、大分にいればずっと戻ってこれないのではないかという予感があったからだ。あの母や親戚につかまったら、下手をすると正月までいることになるだろう。
冬コミに参加する為だけでなく、そんなに長い間あんなど田舎に暮らしたくなどなかったのだ。
それに、あそこの人間はやれ結婚適齢期だのお相手はいないのかだのしつこくて厭なのだ。
ようやく家に戻って、無事に鍵を開けると、懐かしい家に戻ったのだなと変な感慨にふけってしまった。
コタツに入ってテレビ番組を見つつ、泊ればいいという妹に、いや帰ると拒否をした。
何かの刑事ドラマを録画していたらしいのを見せられて、この人に似てると物凄い変人だけど天才の女主人公を指差された。
ほんの少し、じわりとしみ込むように胸の中が熱くなった。
そのドラマは色々と陳腐だったし、意味の良く分からない展開をして続きは映画でなんてよくある駄目な終わり方をしていた。
何も言わず、妹が席を立った。
ひとりで取り残された私はスポーツニュースなどをなんとなく見ていた。
そういえばTVを見るのは久しぶりだったと、食事やクイズばかりしている芸人の顔を見ては、名前しか知らないようなのばかりだなといかに自分が世間ずれしているか分かってきた。
そろそろ出ようか、声を掛けようとしたが、吹き抜けに漏れている妹の声は楽しそうで、おそらく猫を被った話ぶりからして彼氏なのだろうと見当がつく。
私は何も言えなかった。
全部そのままにして、犬に別れを告げると車に乗った。
外は寒かったし、眠かったけれど、走った。山の中を走って、走って、ようやく町の明かりを目にした時に、とてつもなく安心した。
一人暮らしの汚い家に戻って、寝た。
次の日は結局休むことにした。
コミケの準備が全然進んでいなかったけれど、私は疲れていたのだ。
かつてないほどにやる気の出ない年末で、ほとんど会社にも行かなかった。
年が明けて、新年会で私は吐いた。帰りの電車の中で、鞄の中に。鞄を駄目にしてしまったことと、嘔吐したショックで、それでも一人で家まで帰った。
何が切っ掛けだったかは分からないが、本部長に駄目だしをされたことを発奮材料の一つにして頑張ってみようと思った。
そんなやる気が出た日、上司の次長に呼び出された。それは、駄目だしを超えた烙印で、私は1つの夢が破れたことを知り、泣いた。
車の中で大声をあげて泣いて、ヘンなやる気を出して、会社に戻り、PC内のデータとデスクの中とロッカーの荷物凡てを処分した。
本部長にメールで退職希望の旨を送り、次長にはお世話になりましたと頭を下げた。
これが二月頃の話で、なんやかんやと説得をされて退職希望は保留扱いとなり、気の抜けたままの私はずるずると会社に行って、そして三月、あの大震災が来た。
大阪支店に電話している最中、めまいのような大揺れがゆっくり到達していた。
揺れている。
パニックになった私は相手の方も揺れていると聞いてもっと怖くなった。電話を切ることも忘れて、机にしがみつきながら実況していた。
揺れが収まっても、そのまま仕事を続けていたのはパニックが収まらなかったせいだろう。
名古屋に掛けても、東京に掛けても繋がらない。
思っていた通り、とてつもなく大きな地震で、東北が震源だという話が聞こえてきた。
恐ろしくて、ネットの情報を拾うこともできなかった。
津波が来たという。10mを超える大津波。会社は沿岸地域にあって、台風時に浸水する程低地で、いくら湾内とはいえ危険なのではないかと思った。
遠くでサイレンが鳴っていた。聞いたことのない音、防災放送が流れているが遠くてよく聞こえない。
市の沿岸部、すぐ隣町で避難指示が出た。
ようやく会社でも避難が始まり、一応責任者であった私は手順を思い出しつつ誘導をして、事務所の3Fに移動した。
ラジオを持っている人たちがずっとその間話をしていて、津波の被害が甚大だという内容が漏れ聞こえてきた。
沿岸部に子供がいるという人が心配をしていた。
結局、仕事にならないということで帰宅指示が出て、その日は解散になった。
ネットやラジオからは、行方不明や火災などの情報がずっと流されていて、チャットでも無事の報告が無い人たちがいて怖かった。
通販履歴から、仙台に住んでいる人もModderさんにいるんだと分かっていたから、ただただ無事を祈った。
ぽつりぽつりと停電が解消されたりして東北の人たちと連絡が取れてきたり、原発の被害は日増しに恐ろしいものだと分かってきたり、デマが飛び交ったり、めちゃくちゃだった。
何より酷いのは買占めだった。
燃料は云うに及ばず、東北地方の工場が停止した影響を受けて資材が不足すると分かった上の人間たちは買占めを始めたのだ。
値段が高騰する前に、今のうちに、安く多く仕入れておこう。
震災用の支援品を製造することになった工場の代わりに、流れてきた仕事の奪い合いをする。
仕事が無くて困っていたのは分かるが、私には到底納得できることではなかった。
見て見ぬふりをしてきた、会社の汚点が、全部露わになってしまえばもう、モチベーションなど持てる筈がなかった。
目先の忙しさが無くなる頃に、仕事を辞めよう。そう決意したのは三月末ごろだった。
四月一日、金曜日。上司にそれを告げ、三か月以内に辞めることにした。
次の予定などなかったけれど、妙にすっきりとした気分だった。けれど。
翌週、目の前が真っ暗になった。
死に体のような状態でいたとはいえ、人事の回覧を見た瞬間、とてつもなく絶望したのだった。
日頃からコミュニケーション能力不足といわれ、信頼もなく、6年やってきたことなど何の意味もなかったということを宣告されたとはいえ、追い打ちだった。
私は私自身を信じていたけれど、私以外の人間は誰ひとり私を信じてくれていなかったのだ、そういう種類の絶望だったのかもしれない。
私は打ちのめされていた。
GWのイベントには何とか出たけれど、本を作るような気力は全くなくなっていた。
ゾンビのように、会社には行っていたが、ルーチンワークを除いてはほとんど何も手に着かなかった。
6月末で辞めると改めて上司に云った。
突然そんなことを言うなと窘められたところで、私の言うことなど何も聞こえていなかったのだとむなしくはなったが、それも今更だった。
会社の規定に従えば、可能なはずの日程だった。そう言えば、ようやく色々な手続きについて話してくれた。
なるほど、ただ先延ばしにしていればいいと思われていたのだと合点がいったが、もう感慨はなかった。
皆の前で別れの挨拶だなんて、どうしても出来なかった。平静ではいられまい。
醜態を晒す位なら、何も言わずにいなくなるほうがずっとましだった。
ひとり、ふたり。
ほんの少しだけ、何故辞めるのかと引きとめてくれた人があった。
その人たちの目も見られなかったけれど、嬉しかった。
本当に6年間が何もなかった、そういう訳じゃないんだと思えたから。
会社を辞めて、それから納涼会と送別会を兼ねたのだというそれに出席した。
下らないことばかり言う本部長に嫌味を言って少しすっきりした。上司からは別れの言葉を告げられ、少し泣きそうになった。癌を切除して戻ってきた人を見て、家族がいるというのは大変なんだと尊敬したりもした。
書けないんじゃないかと思っていた同人誌がどうにか仕上がり、夏コミでModderの皆と会えたことは本当に心の支えになったと思う。
夏の間は図書館へ涼を求めて通っていた。泣いたり、寝込んだり、名古屋のイベントに行ったり、買い物をしたり、ハロワに行ったりして冬になった。
冬コミの申し込みはできなかったのだけれど、なんだかやる気が湧いてきて、プログラムを組んでみたりと精力的に動いた年末。
そして、今になってようやく私は動き出そうとしている。
沢山の荷物を捨てて、新天地へ旅立とうと思う。
わずかばかりの貯金も使い果たしてしまわないと、きっと心の闇は晴れないかもしれない。
印刷会社から昨日メールが来て、会員ランクが上がったらしいと知った。
私には何もないけれど。
やるべきことがあるのは、それだけでじゅうぶん原動力になる。
引っ越し会社の査定を申し込んだら、早速電話が何本も掛ってきて、大掃除をしなければいけなくなった。
車の買い取り査定の次はリース会社に連絡でもしようか。
さて、体を動かそう。
  1. 2012/01/24(火) 16:57:40|
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